三島由紀夫の自伝的小説。
前半は三島本人の生い立ちをたどる。三島作品特有の性質ではあるが、三島の描写の細かさが同性愛者の視線を生々しく描いた辺りは、同性愛に何の異論もない私でさえ途中読むのが嫌になった。一番嫌悪感を抱いたのが、3歳で汚穢屋の紺の股引きに目を奪われ、「私が彼でありたい」という微妙なコメントで、正反対な身分の青年との合体を願う欲求を描いた部分。3歳で?しかも無自覚なセックスの欲望?汚穢屋という(当時)身分の低い青年に対する、禁断のそして注目するのはそこっていう偏愛・・・・・・おぇ。
予断だが、三島はいつも矛盾したものを抱き合わせたところに美を発見する。(後述の金閣寺でもその性質は伺える。)
第一章は、主人公は生来の同性愛者であり、その性的志向が彼の心の中で成長とともに、どのようにはっきりと本人の中で自覚されるようになったかを描く。主人公は同性愛者であることに気づきながら、時代的にそれが忌み嫌われているという客観的認識を保ちつつ、自分の中でうずきだしてくる気持ちに向き合う。だからといって自分を責めたりはしない。同級生との意味深な関係、その片思いの級友に対する熱っぽくて冷めやすい恋愛感情を描いている。三島作品に共通しているのは、彼の描く主人公が自分を持て余しているということ。彼らはよく思い込み、思い込もうとし、ある日それをふと止め、何事もなかったかのように振舞う。(熱しやすくはないがめちゃくちゃ冷めやすい。)本人的に理由はあるのだろうが、端から見れば全く不可解な突然の行動に思える。
この作品でも、主人公は近江に夢中だったのに、懸垂をする彼の肉体の美しさを見て、いきなり「もう近江を愛してはいないと自分に言い聞かせた」となる。理由はなんと、彼への嫉妬。虚弱体質であるというコンプレックス、そして時代的スローガン、そして美しいものへの彼自身の個人的な憧れで、「強くならねばならぬ」と信じてきた主人公が、近江がもつ美しさと強さを見て強烈に嫉妬し、そして愛することを「やめた」のだそうだ。
三島作品の主人公は、他人を愛せない。だって自分を一番愛している。自尊心が高く、そのくせ虚弱体質やら、祖母の座敷で外で男の子と遊ぶことを禁じられて育ったとか、特異な生い立ちからのコンプレックスが激しく、一方で頭がよすぎて考えに考え抜き、自分を愛してくれたり心配する人々の気持ちを全く受け入れることが出来ない。他人の心の痛みも想像することができないから、他人を振り回しながら自問自答する。常に生きることに疑問を持ち、死への渇望を胸に抱いている、いわば「死に生きる存在」である。
第二章で園子への興味を抱いたのは、彼女が女性という生き物の中で、一番ましな存在であったからだ。「彼女ならいけるかな」という期待で、紳士を装いながら彼女で不能かどうかを試してみる。しかし、人として人の痛みが分かることがないから、愛せないと思った瞬間冷たく突き放す。なのに、相手が結婚して別の道を生きようとしたときに、まるで檻の中にいる動物が自分を襲うことがないという安心感からか、園子に色めいたことを言う。彼女に時々会うことで自分が男であることを社会的に対比させようとする。
最後は、園子が同伴している最中にやはり自分が同性愛者だと気づいたところで終わっている。主人公の頭の中では、彼の世界を探検するのに忙しくて、周りの人間は彼の世界を切り開いていくのに使う道具に過ぎない。春の雪でも、金閣寺でも、三島文学ではいつもそう。三島の作品では、ある人間の頭の中と、その人の外界で発生していることが、まるで間に見えない厚い壁でもあるように描かれる。私が三島を好きなのは、私もこういう人間だからだ。自分という世界が現実世界の中で大きくなりすぎていて、他人のことを自分と同じくらい、またはそれ以上の大きさで考えることが出来ない。
だから、誰かの役に立てたら嬉しいし、生徒に感謝されると、自分もこの世に生まれて来て意味があったなと思える。わたしも他人の幸せを祈る純粋な親切というものが出来たとほくそ笑む。
なんて面倒くさい存在。三島作品の主人公は悩み抜き、答えとしてほぼ死を選ぶ。私は三島の描く世界を愛しながらも、自分の人生はそこに生きる彼らとは別のベクトルに持っていくようもがきながら人のために少しでも役に立ちながら生という修行の場を全うしたい。
終わり
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